The Zodiac Brave Story
第一章 持たざる者

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39.再─骸の騎士・下


(強い……!)
 ラムザは苦戦していた。
 細腕から繰り出されているとは思えぬほどに、その剣の一撃一撃は重い。
 いや、細腕などと言うのは、この相手に対しては失礼であろう。
 ラムザの常識では、腕力で劣る女性の戦場における役割とは、主に魔法であるはずだった。一般に、女性は男性よりも優れた魔術の資質を持っていると言われている。そのことが、男性に引けを取らぬ役割を戦場に与えているのだと──
 しかしながら、今この剛剣を振りかざす相手は、まごうことなき女性である。しかも、年齢もそれほど離れてはいまい。ラムザもまだ歳若く、割と痩身な方とはいえ、壮健な青年の肉体を持っている。
 何がその差を無くしているのか──
 その剣士、ミルウーダ・フォルズ。
 何が彼女をここまで強くしているのか──
「ハアッ!!」
「……!」
 気迫とともに、ミルウーダの剣が振り下ろされる。
 これもまた、重く、そして尚且つ疾い連撃だった。その何撃目かを、ラムザはようやく受け止め、鍔迫り合いに持ち込む。
 荒い息が、間近で感じ取れるような距離。
「あなたは……!」
 この後に及んで説得など、効くはずもないことは明白である。
 それでも、ラムザは対話の姿勢をやめない。
「ミルウーダ……貴女は、私の命を奪えば、それで良いのですか?」
「何を言っている」
「私一人を殺したところで、結局、あなた方は北天騎士団に潰される!」
「だから、"無駄"だと?」
「……!」
「確かあの時も、貴様はそんな事を言っていたな」
「死ぬと分かっていながら、何故」
「殺す気もないくせに」
「……?」
「自分の手は汚したくないってわけ? あなたの剣にはまるで"殺気"がない。私はこんなに本気なのに。あの時もそう。結局、あなたは、自分だけ綺麗なままでいたいんだ」
「そんな……」
 ラムザの気が緩んだのと同時に、鍔迫り合いはあっさり解かれる。弾かれるように、二人の剣士は再び間合いを取る。
「じゃあ聞くけど」
 ミルウーダの顔には、皮肉めいた、どこか病的にも見える笑みが浮かんでいる。
 先ほどから、彼女は"剣士"としての装いをすっかり脱ぎ捨てているように見えた。剣士らしい毅然とした振る舞い、言葉──それらの装飾を取り払った、一人の生身の女の姿がそこにあった。
「あなたは──何のために戦っているの?」
「僕は……」
 猛然たる獣の咆哮が、ラムザの背後から襲いかかったのは、その時だった。
 生命の危険は、彼の思考よりも速く身体を反応させた。刹那、ラムザの視界は、その獣の姿を捉えていた。
 ──殺される。
 そう感じ取った次の瞬間、何者かの陰になって、獣の目は隠れた。
 鈍い金属音。絡まり合う二つの肉塊。そして、絶叫。
 その断末魔の意味するところは、ラムザにも理解できた。
 無念──ただその一念のみを遺して、獣は斃された。
 そして、身を挺してラムザの命を救った者の身体もまた、地に横たわっていた。
 その者の身に着けている鋼の鎧に、獣の遺した爪そのものが食い込んでいた。いかなる怪力のなせる業か、その鉄の大鉞は、易々と分厚い鋼を引き裂いていた。
「ゴルカス殿!」
 ラムザは一瞥しただけで、自身の身代わりとなった人間のもとに駆け寄ることもかなわなかった。
 仲間が犠牲となって作り出した好機を逃すことなく、ミルウーダが追撃を加えてきたのである。
 満身を切っ先にしたような鋭い突きをギリギリでかわし、ほぼ反射的に、ラムザは返しの刃を閃かせた。
 それは間違いなく相手の命を奪う剣であった。
 が、ラムザの理性か──あるいは感情か──が、敵の喉を掻き切る寸前で刃を留めていたのである。
「…………」
「…………」
 ミルウーダの方は、もう微動だにできない。
 刹那の情動に突き動かされた攻撃が、結果的に勝負を決めてしまった形である。彼女の鋭い眦だけが、ラムザの横顔を睨み上げていた。
 今とばかりに、ゴルカス配下の騎士たちが殺到し、盾やら槍の柄やらで、ミルウーダの身体を滅多打ちにして、地べたに這い蹲らせてしまった。
「もうやめろッ!」
 ラムザが止めなければ、そのまま嬲り殺しにしてしまいそうなほど、苛烈な制裁であった。一通りの暴行の後、報復を行った騎士たちは、ミルウーダの手にする剣はもちろんのこと、身に着けているあらゆる武装を引き抜き、彼女の髪の毛を乱暴に引っつかんで膝立ちにさせた。
 戦闘員に男も女もない。それが戦争の掟である。
 とはいうものの、ラムザの純粋な心は痛まずにいられなかった。
 彼は一度息を深く吐き出し、ミルウーダとの命のやり取りで緊張と興奮の極地にあった神経を落ち着かせる必要があった。
「ゴルカス殿は?」
 隊長のゴルカスの元には、すでに他の配下の騎士たちが駆け寄り、介抱を行っていた。ラムザもゴルカスの容態を確かめたるため、そこへ割って入る。
「傷が深い。すぐに野営地に戻って手当てしないと」
 騎士の一人が、深刻な面持ちで言う。
 その時、ゴルカスの口から苦痛の呻きとともに小さく声が漏れた。
「ラ、ラムザどの」
「ゴルカス殿……!」
「ご無事なようで何よりです……不甲斐ない姿をお見せしてしまいました」
「そんな、私などのために……」
「何をおっしゃいますか。あなたは北天騎士団にとって、大切なお方。こんなつまらぬ戦場で万一のことがあっては」
「戦いに夢中になるあまり、周りが見えていませんでした……これでは騎士失格です」
「命あっての物種です。それより、私はこんな態ですので……あとの処置はラムザどのにお任せしてもよろしいか」
「はい、ゴルカス殿はすぐに治療を」
 ゴルカスは微かに笑みを浮かべて、小さく頷く。ラムザが騎士たちに目配せすると、彼らは上官の身体を支え合い、その場を離れた。
 もとより、因縁あるミルウーダの対処を任せてほしいとゴルカスに頼んだのは、ラムザ自身である。ただ、こんな形で隊の指揮を委ねられることになるとは、彼も予想していなかった。
 そこへ、ディリータが歩み寄って来、
「命拾いしたな」
 と、真面目な顔をして言った。
「うん、ゴルカス殿に救ってもらった」
 ラムザは、沈痛な面持ちで頷き返す。
「隊長どのは?」
「治療のために野営地に戻ることになった。以降の指揮は僕が執る」
「了解した。じゃあ報告するが、敵部隊の殲滅は完了しつつあるようだ。まだ詳細は上がってきてないが、うちの隊の連中が現在状況確認中だ」
「……そうか」
「予想外に苦戦したな……それで、あの剣士が」
「ああ」
 ラムザの視線の先には、突きつけられた槍の下で、頭を垂れるミルウーダの姿があった。
「どうするつもりだ?」との友の問いかけには答えず、ラムザはミルウーダの方に歩み寄る。
 ディリータの報告通り、戦闘はすでに収束に向かっているようで、彼の周囲ではほとんど戦の音も止んでいる。
 陽はすでに、中天に差し掛かろうとしていた。
 からりとした少し冷たい西風が、ゆるやかに戦の跡の野原を渡っていく。
「…………」
「…………」
 ついさっきまで剣を交えていた時のような張り詰めた空気は、とっくに消え失せていた。
 伏せられたミルウーダの顔から、ぽたりぽたりと血の雫が滴っているのが見える。
 ラムザの気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと面をあげた。
 その鳶色の瞳に、先ほどまでの鋭さはない。戦場に似合わぬ長い睫が、血に濡れている。
 すでに運命を悟ったかのような、その冷めた瞳を、ラムザは以前にも目にしたような気がした。そう、かつてミルウーダの盟友として共に戦い、彼女を逃がすために北天騎士団に捕らわれ、むなしい最期を遂げたレッドという骸旅団の戦士がいた。
 北天騎士団の任務で、ラムザはその男をイグーロスまで護送したのだ。道中、一切の糧食を口にしなかった彼の目にも、こんな諦観の色があったのを覚えている。
 そして、死地に向かう男と一度だけ交わした言葉も、ラムザははっきりと覚えている。
 ──"われわれは話し合える"。
 言葉を解する種として生まれながら、まして意思を通じ合える共通の言語を持ちながら、"話し合う"ことのいかに困難であるかを、ラムザはこの数ヶ月の経験だけで幾度となく思い知らされてきた。
 数奇な運命は巡り、ラムザは再びこの女性と相対することとなった。
 ──"話せば分かり合える"。
 しかし、彼の体験は、容易にこれを受け入れられるほどの純粋さをもまた、奪っていたのかもしれない。それは言い方を変えれば、"分別"ともいえる何かかもしれなかった。
「やっぱり殺さないのね」
 結局、最初に口火を切ったのはミルウーダの方だった。
「こっちは命がけで戦っていたのに」
 ラムザは、逸らしたくなる目を必死でこらえた。仮にも指揮官を任された手前、努めて毅然たる態度を維持する。
「手心を加えたつもりはありません。できるわけがない。私の力では、あなたの剣を凌ぐのがやっとだった」
 それは本心である。最初の手合わせの時点で、ラムザはミルウーダとの実力差を把握していた。
「しかし、最後だけ、あなたは剣にとらわれていた。私があなたに及んだのは、その時だけです」
「なめられたものね」
「あなたは強い。あなたの──兄上も。私など到底及ばない」
 最後の一言は、苦い思い出とともに噛み締められた。砂ネズミの穴ぐらでウィーグラフと対峙した時は、剣を交えるまでもなく、ラムザは一人の人間として、完全に圧倒されてしまったのだ。
「ウィーグラフと戦ったのか?」
 冷めきっていたミルウーダの瞳に、わずかに熱が戻る。
「最初はドーター、そのあと砂ネズミの穴ぐらでも、貴女の兄君に会いました。一度目はむしろ助けられ、二度目は……剣を交えることさえ許されませんでした」
「兄は生きているのだな?」
「ええ、しかし……」
「奴は尻尾を巻いて逃げたんだよ」
 ラムザの言葉を遮ったのは、いつの間にか傍に来ていたアルガスであった。
 薄ら笑いを浮かべて、膝下のミルウーダに唾を吐きかけんばかりの見下し様である。
「俺たちの部隊に包囲され、奴は仲間割れで孤立していた。何やら高邁な捨て台詞を吐いて行かれたが、結局戦いもせず逃げて行ったよ……侯爵様を解放したのも、せめてもの強がりだったのだろう」
 あの時ウィーグラフと対峙したラムザたちは、獅子を前にした羊の群れのように、文字通り手も足も出なかったのである。そういう事実も、アルガスの話術にかかればこのようになる。
 仕方なく、ラムザが訂正しようとするより先に、
「孤立した相手を多勢で囲っておきながら、捕らえられなかったということだ」
 さらりと、ディリータが客観的事実を述べてくれた。
「フン、奴が捕まるのも時間の問題だ。兄妹そろって縛首とは見ものだな!」
 ディリータに自らの虚栄を暴かれた苛立ちから、アルガスはさらにそんな強がりを言う。
「お前らだけじゃない。貴族に逆らい、秩序を乱した輩は全員縛首だ。いっそのこと、この女もここで終わらせてやればいい」
「何──」
 ミルウーダの頬に、さっと紅みが差す。
「ならば殺せッ、殺すがいいッ!!」
 静かな憎しみを込めて、鋭さを取り戻した彼女の眼が、アルガスを睨め据えた。
「そんなに死にたいのか? あのハマとかいう男といい、家畜は家畜らしく、おとなしく貴族に飼われていれば殺されずに済むものを!」
「私たちは貴族の家畜じゃない! 同じ人間だッ!」
 ミルウーダの叫びに、アルガスの眉がピクリと動く。
「"同じ人間"だと──?」
「私たちと貴方たちの間にどんな差があるっていうの!? 生まれた家が違うだけじゃないの! ひもじい思いをしたことがある? 数ヶ月間も豆だけのスープで暮らしたことがあるの? なぜ私たちが飢えなければならない? それは貴方たち貴族が奪うからだ! 生きる権利のすべてを奪うからだッ!」
「……!」
 それは、誰もがこの世にあると知りながら、どこか当然と思い込んできたあらゆる欺瞞と歪みに対する告発であった。その言葉の前では、いかなる論理も方便も、薄っぺらい虚言に等しいとさえ思われた。
「……言いたいことはそれだけか?」
「もうよせ、アルガス」
 無論ラムザも、ミルウーダが暴いた欺瞞を正当化するだけの論理を持ち合わせてはいなかった。それはアルガスとて同じはずだが、論理はともかくとして、彼は完全に見下していた相手にここまで言われた手前、どうにも引っ込みがつかなくなっていた。
「生まれた瞬間から、おまえたちはオレたち貴族に尽くさねばならない! 生まれた瞬間から、おまえたちはオレたち貴族の家畜なんだッ!!」
「誰が決めたッ!? そんな理不尽なこと、誰が決めたッ!」
「それは天の意志だ!」
「天の意志? 神がそのようなことを宣うものか! 神の前では何人たりとも平等のはず! 神はそのようなことをお許しにはならない! なるはずがないッ!」
「家畜に神はいないッ!!」
「!!!!」
 ミルウーダの口から、続く言葉の代わりに、小さく息が漏れた。
「…………」
「…………」
 何か異様な空気が、しばし二人の間を埋めていた。
 それから、沈黙の呪文をかけられたかのように、ミルウーダは言葉を失ったまま、虚ろな目を地面に落とした。
「気が済んだか?」
 ディリータがアルガスの肩に手を置き、感情の無い声で言う。しかし、その双眸には、底知れぬ不気味さがあった。
「……フン」
 アルガスはその手を払いのけるようにして、憤然と、どこかに歩き去っていった。
 その場にいた誰もが、やるかたない思いに沈んでいた。
 やがてラムザが前に進み出て、撤収の指示を出した。
「骸旅団のミルウーダ、その他の捕虜は全員野営地に収容するように」
 臨時指揮官の指示を受け、ミルウーダを拘束していた騎士たちが彼女に立つよう促す。
 つい先ほどミルウーダを徹底的に打ちのめしたこの騎士たちからも、彼女に対する敵意は今やすっかり消え失せ、彼女を見る目には、どこか憐れみすらあった。


 その夜、ウィングシェールの野営地──
 ディリータは戦捷の宴も程々に、どこかへ足早に向かっていた。
 宴に使われていた大幕のテントからは少し外れた場所に、警備の兵が厳しく守る囲いがある。骸旅団の数少ない捕虜たちは、全員そこに繋がれていた。
 ただひとり、首領のミルウーダだけは、その囲いに隣接する独立したテントに収容されていた。
 ディリータは、ミルウーダのいるそのテントに近づいていった。
 彼の姿を見とめて、テントの守衛に立っていた見習い騎士のジョセフが、何やら血相を変えて、ディリータの方へ手招きしている。守衛は二人いるが、どういうわけか、もう一人は腹のあたりを押さえて、その場にうずくまっている。
「何があった?」
 聞きながら、ディリータは、テントの内で起こっている異変を察知していた。ただならぬ物音が、ここにいても聴こえてくる。
「ついさっき、騎士が三人でやってきて、無理やり通せって言うんだ。それで……」
 ジョセフの説明を最後まで聞かず、ディリータは入口の仕切りを払って中に踏み込んだ。
 捕虜となったミルウーダは、中央の柱に、手縄のみで括り付けられているはずであった。しかし今、その姿は三人の男の背中に隠されていた。
「ええい、大人しくしやがれ!」
 その男たちが、激しく抵抗するミルウーダを、三人がかりで押さえてつけているのである。
 片方だけ脱げた彼女のブーツが、一人の男の背後に放り出されていた。
「何をしている!」
 ディリータが問い質すと、男たちは、ハッとして彼の方を振り向いた。
 三人の顔は、いずれも彼の見知った顔ではない。
 ゴルカス配下の騎士ではなさそうなところを見ると、ウィングシェールの現地徴用部隊の者か。どの面も、明らかに素面ではない。
「なんだてめえは」
「ガキはお呼びじゃねえぞ!」
 相手が見習い騎士だとみて、完全に舐めてかかっている。
「今すぐ彼女から離れろ!」
「なあおい、せっかくの戦捷祝いだってのに、楽しまなきゃあ損だぜ?」
「二度は言わんぞ」
「脅すのか? 女も知らねえ小僧が」
 男の一人がおもむろに立ち上がり、ディリータに酒臭い顔を近づける。
「なあ、見ろよ。こんな上玉、そうそう抱けねえぜ? 少なくとも、街の旅籠にここまでのは一人もいねえ」
「お前たちは軍規を犯している。捕虜に対する暴行は重罪だ。この件は、ウィングシェール治安維持部隊長のハンザ殿に報告させていただく」
「へへっ、そうかよ──」
 そう言って離れると見せかけて、男は右手に持っていた酒瓶をディリータの横面に思い切り叩きつけた。
 ──が、男の腕は大きく空を切り、素早く身を翻したディリータが、その手首を捻り上げた。
「あっ!畜生、こいつッ!」
「…………」
 さらに捻りを強めると、男は悲鳴を上げ、
「イテテテッ!! お、おい、お前ら!」
 目に涙を浮かべて仲間に助けを求めたが、彼らが加勢するより先に、ジョセフが呼んできた救援の人数が駆け入ってきた。
 ディリータの指示で、不埒を働いた男たちは直ちに縛り上げられ、治安維持部隊の本営に連行されていった。
「……申し訳ない」
「…………」
 ディリータはミルウーダの前に跪き、身内の非礼を詫びた。
 彼女の顔にできた痛々しい痣と、胸元まではだけたシャツを見ずとも、許してくれなどとは口が裂けても言えなかった。
 ミルウーダは横を向いたまま、ディリータの方を見ようともしなかったが、頬には光るものが零れ落ちていた。
「……失礼」
「……!」
 ディリータは、彼女が拘束されている柱の裏に回り込むと、手縄をナイフで切断した。
「どういうつもり……?」
「…………」
 両手が自由になっても、ミルウーダは乱れた髪や衣服を直す素振りも見せない。
 怪訝な目で、そこに畏まっているディリータを見つめていた。
「実は、少しお話ししたいことがあって、ここに来たのですが……」
「話……?」
「その前に……しばし、お待ちを」
 ディリータは外にいた守衛に頼んで、椀一杯の水を持って来させた。
「よろしければ、これを」
 と、ミルウーダに勧める。
「…………」
 ミルウーダは少し躊躇したものの、黙ってそれを受け取った。彼女は暫くその水をじっと見つめていたが、やがて、少しだけ口を付けた。
「…………」
「…………」
 こういう時の気遣いをよく心得ないディリータは、なかなか話を切り出せず、まごまごしていた。
 その様子を察したらしいミルウーダから、「私はもう、大丈夫だから」と言われて、彼はようやく話し始めることができた。
「今日の戦のあと、友が貴女にひどいことを言いました」
「それを謝りに来たの?」
「それも、ありますが……」
「あんな暴言は慣れっこよ。さっきみたいのもね」
「…………」
 想像以上に強い女性(ひと)なのだなと、ディリータは思った。ラムザがこの女性を気にかけているのも、よく解る。
「……貴女は、ラムザ・ベオルブをご存知だったそうですね」
「ええ、まあ……」
「彼とは、幼い頃からの親友なのです。といっても、僕は平民の出なのですが」
「え……?」
「縁あって、妹と一緒にベオルブ家に引き取られました。以来、ラムザ・ベオルブとは本当の兄弟のように接してきました。同じ屋根の下で学び、毎日のように剣の稽古をしました。遊ぶ時も、眠る時も、いつも一緒でした。喧嘩もしょっちゅうしました。でも、どんなに親しくなっても、事あるごとに、超えられない壁を感じてきました」
 ディリータは、面を上げ、ミルウーダの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「"持てる者"と"持たざる者"の壁です」
「…………」
「人並み以上の努力をしてきたつもりです。でも、努力だけでは、その壁は超えられなかった。この先も、きっと超えられることはないでしょう。──壁そのものを破壊するような、大きな"変革"がない限り」
「……!」
「骸旅団が目指したのも、きっとその大きな変革であったはずです。でも、失敗した。僕は、貴女たちの目指すものには賛同しますが、貴女たちのやり方に、全て賛同することはできない。貴女たちの活動が、結果として民心を大いに脅かしたことは事実です」
「…………」
「ですが、骸旅団が立ち上がったことで、今や民の不満は、畏国各地で爆発しています。これは、大いなる変革への第一歩だと僕は考えています。ただ、貴女たちのようなやり方でこれ以上続けても、変革の次の段階に進むことは永遠にできない」
「……何が言いたいの?」
「この国をここまで腐らせている病巣は、真正面から戦いを挑んでも決して取り除くことが出来ない、もっと深い所に巣食っているのです。それをどうやって取り除けば良いのか、僕にはまだ分かりません。ですが──」
 ディリータはゆっくりと立ち上がり、暴力と涙の跡が生々しく残る、憐れな女剣士の顔を見下ろした。
「いつか、この手で、その変革を成し遂げるつもりです。貴女や貴女のお兄さんとは違うやり方で、成し遂げてみせる」
「貴方は……いったい……」
「僕の名はディリータ。ディリータ・ハイラル。骸旅団の剣士ミルウーダ・フォルズ、貴女は誇り高き剣士だ。その誇りに免じて、貴女を解放する」
「……本気なの?」
「僕は本気です。そしてこれは、我が友、ラムザ・ベオルブの意志でもある。でも、思い違いしないでもらいたい。これは決して、温情などではない。この国に真の変革が訪れる時、貴女にも力を貸してもらいたい。ウィーグラフ殿ではなく、貴女にです」
 ともすれば、ディリータの話は子供じみた空想に聞こえなくもない。
 馬鹿げた話だ──いつもの冷静な彼なら、そう思ったかもしれない。
 ただ、今の彼は、ある決意を持ってここに立っているのである。
 その決意と、ミルウーダという女性の死活は、直接的な関りがあるわけではない。それでも、今こうすることが、ある種の"禊"となるのだと、彼は信じている。
 その時、まだ血の滲むミルウーダの口元に、ふと笑みがこぼれた。
「私に、そんな力はないわ……買い被りよ」
「僕にだって、力などありはしない。でも、強い"信念"さえあれば、強大な力にも、深遠な知性にも打ち勝つことができると──僕が父として崇める、亡きバルバネス公はおっしゃっていた」
「…………」
「残念ながら、今の僕やラムザの力では、すぐに貴女方を仲間に引き入れることはできません。ですが、遠からず、貴女の力が求められる時が来ます。その時まで、どうか生き延びてもらいたい」
「……ずいぶんと、自信があるのね」
 ミルウーダは水の入った椀に、しばし静かな目を注いでいた。そこには薄っすらと、虐げられた惨めな女の像が浮かんでいる。やがて、その像を打ち消すように、彼女は一息にそれを飲み干した。
 それから椀を傍に置き、ミルウーダはゆっくりと立ち上がった。ディリータは、彼女の片脚が素足であるのに気づき、すぐに落ちていたブーツを拾うと、それを手渡した。
「……ありがとう」
 ミルウーダはブーツを履き直し、乱れた衣服を整えた。
「それでは……」
「貴方の期待に応えられるかは、分からない。私には、私の戦いがあるから。でも、貴方の言う"信念"には興味がある」
 すでに彼女の表情は、戦いに敗れ、運命に絶望した者のそれではなくなっていた。
「言っておくけど、私たちの敵は貴族よ。それは変わらない」
「分かっています」と、ディリータは、一つ大きく頷いてみせた。
「あまり時間はかけられません。お仲間もこれからすぐに解放します。さあ、こちらへ」


 ディリータが捕虜を収容してある囲いに近づくと、そこにいた守衛が、彼の前に立ち塞がった。
「イアン、捕虜を解放してくれ」
 収容場所の守衛に立っているのは、全員アカデミーの見習い騎士仲間だ。
 捕虜の扱いは、ラムザ隊の管轄となっていた。
 捕虜の管轄を決める際、北天騎士団の正騎士たちは若い彼らに任せることを渋ったのだが、指揮官のゴルカスが負傷していたのと、彼自らラムザに指揮権を移譲したこと、そして、ベオルブの家名も少なからず影響し、結局彼ら預かりとなったのである。
「本当にいいんだな?」
 イアンが尋ねると、ディリータは表情ひとつ変えずに、
「全ての責任は僕が取る」
 と、答えた。
 イアンは黙って頷き、囲いの扉の鍵を開けた。
 捕虜たちは当然、戸惑いの色を見せた。逃がしたところで、まとめて殺されるのではと疑う者もいたが、ミルウーダとディリータの説得により、最終的には全員が解放を受け容れた。
 その後、負傷兵の何名かが彼らに合流した。歩けない者を載せられるよう、荷車も用意された。
 全部合わせても、二十名に満たない。
 ──ハマの同志たちも、私に付いて来てくれた皆も、ほとんど死んでしまった。
 寂寥たる思いに駆られていたミルウーダの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできたのは、その時であった。
「ミルウーダ!!」
 ハッとしてその声の方を見ると、他の者よりいちばい小柄な少女が、こちらに駆け寄って来るところだった。
「エマ!!」
 ミルウーダの驚きも、ひとしおではない。あれほどの激しい戦である。幼い黒魔道士ではとても生き残れまいと、諦めかけていたところなのだ。
 エマは麻布のシャツ姿で、帽子も杖も持っていなかった。この姿では、そこらの街娘と何も変わらない。
「頭に矢を受けて──といっても、実は、帽子に刺さっただけなんですけど。それから私、さっきまでずっと気を失っていたんです」
「怪我はないか!?」
「うん、大丈夫。でも、ほとんどお役に立てなくて……ごめんなさい」
「いいんだ。生きてさえいれば。また会えて、本当に嬉しい」
「私もですよ! 言ったでしょう? 地獄の果てまで付いていきますって」
 ミルウーダは、エマの小さい身体を力いっぱい抱きしめた。
 自分にとって肉親といえる人間は、この娘だけになってしまった。兄とはもう、会うことは無いのだろうと、心のどこかで思っている。
 何より、エマが生きていてくれたことが、今のミルウーダにとって、どれほどの救いとなったことか。
 夜の闇に紛れて、彼らは野営地を抜け出した。ディリータたちの手助けも、ここまでが限界だ。
 あとはどこへ流れるも、ミルウーダ次第である。
「ラムザって人に、また助けられましたね」
「…………」
 夜の草原を足早に進みながら、エマがそんなことを言った。
 ミルウーダ自身、あのベオルブ家の御曹司のことが今も胸につっかえていることは、否定できない。
 客観的に見て、彼に命を救われたという事実は明らかである。それについては、マンダリア平原での一件も同様である。
 もっともその時は、彼の方が捕虜だったのだが。
 ラムザの姿は、結局最後まで見えなかった。ディリータという青年は、この処置は彼の意志でもあると言っていた。
 ──それは本当なのだろうか?
 平民出身だという彼には、どこか得体の知れないものを感じた。
 "変革"について語る男たちを、ミルウーダは何人も見てきた。もちろんそこには、兄ウィーグラフもギュスタヴも含まれている。
 その誰とも、彼は違っているように思えた。もっとも、あの年頃の青年特有の絵空事ということもありえるが。
(この国に真の変革が訪れる時、貴女にも力を貸してもらいたい。ウィーグラフ殿ではなく、貴女にです)
「……ミルウーダ?」
 何も答えないミルウーダを不審に思ったエマが、顔を覗き込んでくる。
「借りは返すつもりだ」
 それだけ言って、ミルウーダは後ろを振り返る。
 黙々と歩みを進める僅かな同志たちの隊列の向こうに、野営の火の明かりが小さく見えた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 実のところ、ディリータのこの行動が、本当にラムザの同意の元で行われたのかどうかは、今となっては判然としない。
 ミルウーダとの戦いのあと、アルガスが彼女に対し放った暴言が、そこに至るまでのディリータ自身のさまざまな経験と相まって、このような行動に駆り立てたのか。
 あるいは、極刑を免れないと知りながら、再びミルウーダたち骸旅団の捕虜を死地に導かねばならぬラムザの苦悩を慮っての行動だったのか。
 ともかく、独自判断による捕虜の解放という暴挙は、当然、この後北天騎士団の軍規に照らし、しかるべき説明と処分を求められるはずであった──。
 しかし、それを不問にしてしまうほどの、もっと重大な事態が、この時すでにイグーロスよりもたらされていたのである。

 ──"ベオルブ家令嬢、誘拐さる"

 時にして、畏国歴一〇二〇年天蠍月十日。
 未だ明けやらぬ野営地のテントの中で、青年ディリータが生涯を賭けての大事業に臨むことを決心したまさにその日。
 彼と彼の親友ラムザの運命の歯車は、イヴァリースの歴史と共に、大きく回り始めたのである。


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