The Zodiac Brave Story
第一章 持たざる者

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22.闘技場


 巷に傭兵と呼ばれる戦士たちが、畏鴎大戦後どうやって暮らしているのかといえば、騎士団に取り立てられて碌を食めるようにった者などは、かなり幸運な部類の人間であった。そこから外れた大多数にしても、まっとうな者は、商人に身を窶(やつ)して日々の糧を得たり、寒村の自警団職に収まったりしていた。
 が、大抵の者は、そう上手くはいかなかったということが、ドーターの街の実情だけ見てもよくわかる。
 ムアンダ一味なる不逞の衆がドーターの下街を荒らしだしたのは、世に"河原の口約束"などと揶揄される「アロー河の講和条約」が成り、実質的な畏国の敗退という形で、バルバネス・ベオルブ将軍率いる北天騎士団の大軍団が是領より故国凱旋を果たした後の事である。
 依然アロー河の西岸一帯に軍を留めている南天騎士団につき従う兵たちは別として、北天騎士団の戦力に加えられていた「骸騎士団」を含む平民の義勇兵は、帰国後、満足な恩賞も与えられず、その多くは職も失い、路頭に迷うこととなった。
 政府の救済措置も功を奏さず、半ば自暴自棄となった彼らは、あるいはウィーグラフ・フォルズの呼びかけに応じ、「骸旅団」となって政府に反旗を翻し、あるいは匪賊と化して、暴虐を欲しいままにした。
 政府はこれら不満分子を力でもってねじ伏せ、結果、当初は義軍として一応のまとまりを見せていた骸旅団を解体に至らしめ、以降、彼らの活動は匪賊の行いとさして変わらぬものとなっていた。
 そうした中、
「ドーターでうまいことやっている連中がいるらしい」
 との噂が、「骸旅団」という最後の寄る辺も無くした者たちの耳を掻きたてたのは必然のことであった。
 すなわち、その"連中"というのが、"ムアンダ一味"である。
 "必中のムアンダ"なる通り名を、大戦に従軍した者の中には耳にしたことのある者もいた。
 畏?大戦における骸騎士団の戦いぶりは諸史録に詳しいが、ウィーグラフやギュスタヴといった骸旅団の中核をなしていた人物をはじめ、このムアンダという男も、しばしば諸戦の記録に登場している。
 それを見れば、
「千エータ隔てた騎上の敵将の冠を射落とした」
 とか、
「千本の矢を立てても斃れぬといわれたトロル兵の喉笛を射抜き、一撃で仕留めた」
 とか、嘘だか真だか分らぬ類のものではあるが、そうした伝説が作られるからには、それなりの使い手であったろうことが推察される。
 彼の得物は、「クロスリカーブ」と呼ばれる大型の弩(いしゆみ)であった。
 余人の手にはおよそ扱えぬであろうこの巨大な弩は、ムアンダという男そのものであるかのように、畏怖と崇敬の対象となっていた。もっとも、ムアンダはどこへいくにもこの「クロスリカーブ」を背に負っていくから、それ自体が彼の体の一部といってもよさそうなものではある。
 はたして、この南方人が、どのようないきさつでドーターの下街(ダウンタウン)を牛耳ることとなったのか。
 そもそも、ムアンダはギュスタヴ・マルゲリフと縁深く、戦地においても、互いに命を預けあう仲であったという。
 戦地より帰還したのち、骸旅団旗揚げの際には、ギュスタヴより真っ先にその意中を問われたのだが、同時に彼は、北天騎士団傭兵部隊からも、その腕を見込まれて、「是非にも」という誘いを受けていたのである。すなわち、この選択は、戦友であるギュスタヴの敵となるか、同志となるか、の選択でもあったともいえる。
 結論から言うと、ムアンダはどちらの誘いも受けなかった。
「国のために死ぬのも、義のために死ぬのも、やっぱり俺の柄じゃないね」
 そう言って、若い時分に世話になった船乗りのつてを頼り、単身、港町ドーターへと向かった。この時はまだ、船の用心棒職にでもありつこう、というくらいの腹であった。
 そもそも、骸騎士団に参加したのも、恩賞目当てであって、国のために死のうなどという気はさらさら無かったムアンダなのである。
 また再び傭兵となって、泥沼の戦地に狩りだされても堪らぬし、かといって、友に義理立てするつもりもなかった。彼が自慢のクロスリカーブを引き絞るのは、いつ何時も金のためだけである。
 ムアンダが「親父さん」と呼んで慕ったかつての船乗りは、大戦により需要の高まった武器交易で財を成し、街を取り仕切るヴァイス商会の中でも重きを置くほどの豪商となっていた。
 彼は船乗り時代よりかわいがっていたムアンダとの再会を大いに喜び、ムアンダを彼の私兵団の長に推挙した。
 思わぬ形で自由に扱える駒を手にしたムアンダは、さっそく、形ばかりとなっていた都督府直属の自警団を下町から追い出してしまう。また、他の商人の有する私兵団も次々と吸収していき、瞬く間に、一味の人数は膨れ上がっていった。
 さらには、下町に一味の根城を構え、そこで自治めいたことまで始めたのである。
 後見人の名を振りかざし、"地代"と称して、貧しい民から巻き上げた金を、彼は"闘技場(サークル)"なるものの建設費用に充てた。
 "闘技場(サークル)"とは、つまり、人間の命を賭けた賭場のことである。
 頑丈な鉄製の網を周囲に張り巡らしたリングに魔物も人間もいっしょくたにぶち込まれ、血みどろの殺し合いが演じられる。見物人は誰が生き残るかを賭け、眼下に繰り広げられる殺戮ショーに熱狂する。
 "闘技場(サークル)"は、開設から一月もたたぬうちに商人の間で大人気の娯楽となった。近頃では、闘技場目当てに市外からわざわざお忍びで訪れる貴族の姿すら見られた。
 ここで産出された利益は、街を牛耳る豪商たちと、商家と癒着した都督府の役人の懐に流れ込み、ムアンダの悪逆非道は、まったく看過されている形であった。


 はたして、ドーターの下町のほぼ中央に位置する闘技場(サークル)は、今日もその盛況ぶりを場外にまで響かせていた。
 時刻は双子(ジェミニ)の刻を少し過ぎたところで、薄曇りのドーターの下街は昼間なのにもかかわらず、そこらの路地や民家の軒先は、じめじめとして薄暗い。
 闘技場の建物自体は、周囲の家屋とは比較にならないほど巨大な木造建築物であった。今しがた、外套に身を包んだ男が一人、その門をくぐろうとしたところを門番が引きとどめた。
「おっと、旦那。何かお忘れじゃありませんかね?」
「…………」
 男が黙っているのを門番は訝って、
「入場料! きっかり五百ギル、元手も払えないならお帰り願うが、それとも闘士として出場するんなら、登録は裏手でやってるぜ?」
 男の身なりが浮浪者のごとくみすぼらしいのと、腰に長剣を佩いているところを見て、案内を付け加えたのである。行きずりの浪人が食うに困って、人間の最後の元手である命まで捧げにこの闘技場に来ることなど、最近では珍しくもなかった。
 男はやはり無言であったが、懐から布袋を一つ取り出すと、門番の胸にそれを押し当ててていた。
「うおっ」 
 門番が両の掌でそれを受け取ると、袋の中身がジャリと鳴って、その重みからしても、相当な額であろうことが察せられた。
 門番は浮浪者のような男の懐から出たとは思えない金袋の中身を確かめながら、
「よし、通んな」
 と、二言もなく男に道を空けた。
「ムアンダは中にいるか?」
 男が突然そう訊いたので、金を数えるのに夢中だった門番は、びくりとして顔を男に向けた。
「何者だ、あんた」
「ムアンダはいるのかと訊いている」
 フード越し覗いた眼光に射られ、門番は獅子に睨まれた野鼠のように身をすくませた。
「し、仕合を見てらっしゃると思うが……」
「結構」
 颯爽と賭場に入っていく男の姿を見ながら、門番はうすら寒いものを背筋に感じていた。と、同時に、妙な感覚にとらわれてもいた。
(さっきの男、どこかで……?)
 門番の頭上で、またひとつ獣の雄叫びがあがり、その上にばかでかい喚声がのっかって、それはまさに今始まった"仕合"の熱狂ぶりを外に伝えていた。


 大の大人の身長の、ゆうに三倍はあろうかという体躯を捻りあげたかと思うと、"牛鬼"と呼ばれる魔物は、手に持った巨大な鉞(まさかり)を振り落とした。その攻撃を受ける方はというと、こちらは裸に皮の腰巻と鉄製の兜を身に付けただけの、生身の人間なのである。
 慌てて盾を構えるも、自分の体重の何倍もある相手から繰り出された渾身の一撃をまともに受けては、どんなに屈強な闘士とてひとたまりもない。金属のぶつかり合う鈍い音がして、闘士の体は、あっけなく吹き飛ばされ、闘技場を囲む金網に叩きつけられた。
 その瞬間、ひときわ高い喚声が発せられ、仕合場を見下ろす観客席は熱を帯びた狂騒に包まれた。
 先ほどの闘士を見れば、盾は無残にひしゃげ、それを持つ手も力なくぶら下がっていることから、腕の骨も粉々になっていることがわかる。それでもなんとか立ちあがろうとしているところへ、牛鬼は追撃の鉞を容赦なくを叩き込む。
 ──二度、三度、四度。
 鉞が振われるたび、金属音とは異なる生々しい音が上がる。牛鬼の足もとで、かろうじて闘士の姿とわかる塊がピクリとも動かなくなってから、ようやく仕合終了を告げる鐘が打ち鳴らされた。
 再び喚声が巻き起こる。勝者となった牛鬼は、興奮した様子で二対の角を振り回している。
 誰の目にも明らかな、一方的な殺戮劇であった。
 観客たちは安全な場所にいて、無力な人間が引きちぎられていく様を見、嗜虐的な喜びに酔いしれる。賭けといっても、余興のついでといったものでしかなく、あるいは、この地獄絵図を間近に見るための謝礼的な意味合いも、その中には含まれていた。
 こうした絵を、実際の戦場の血生臭さを知らぬ者たちは、つまらぬ日常に程よい刺激を与えてくれるものとして、尊重しているらしかった。
 仕合後の余韻に浸る観客席をざっと見渡せば、海洋民風の派手な装束を身に付けた豪商らしい姿がほとんどで、わずかに、瀟洒な衣服に身を包んだ、どこぞの領主の放浪息子といった風情の若い連中の姿が目を引いた。
 やはりそうした連中の一人で、いかにも上流市民といった感じの若者が、彼の隣席の妙に物静かな男が気になり、声をかけていた。
「あんた、ここは初めてかい?」
 気さくに話しかける若者に答えるそぶりも見せず、男は金網に囲まれた目下の仕合場をじっと見つめている。さっき門番に金袋を突き付けた時と変わらず、薄汚いフードを目深に被り、腰に佩いていた長剣は観客席の椅子に立てかけられている。
 若者は、「耳が遠いのだろうか?」とでも言いたげに首を傾げてから、なおも言葉を続ける。
「いやあ、やっぱり異種戦はいいね。人間のほうが勝つことは滅多にないけど」
「…………」
「ていうか、ここ(サークル)では一度もないかな? たまに強そうなのがいたらそっちに賭けることもあるんだけど、結局駄目だなあ」
「…………」
「この前なんか、三人掛かりでベヒモスに挑んでたけど、まったく歯が立たなかったからなあ」
「…………」
 若者は横目を使って、ちらちらと男の反応を窺っているらしかったが、依然男はむっつりとしたまま口をきかないので、だんだん不機嫌な色をにじませてきた。大人を相手に通ぶりたいのが、この年頃の青年らしい。
「あんた、随分汚い格好をしているけど、浪人か何かかい?」
「…………」
「あ、それともあれか、仕合に出る前に下調べをしているんだな? その剣は、見せかけじゃないんだろう?」
「…………」
「そうなら、さっきも見ていた通り、異種戦だけはやめときなよ。配当は人間相手とは比較にならないくらいデカいけど、まあ、まず勝てないだろうからね」
「…………」
「そうそう、今日はこれから"餌場"をやるらしいんだ」
「……餌場?」
 そこで男がようやく食いつきをみせたので、若者は得意になって話を続ける。
「知らないのかい?」
「ああ」
「ふふーん、"餌場"とはその名の通り、魔物の餌場のことさ。これも異種戦の一つなんだけど……」
 若者は、不気味な光を湛えた眼を男の方に向け、にやりと口元を歪める。
「女が出るんだ」
「女?」
「そう、若い女。正直、僕はまだ直接見たことはないんだけど、すごいらしいんだ」
「…………」
「友人から聞いた話なんだけどね、丸腰の女に、人食いグールを襲わせるらしいんだ。ほら、分かるだろ? グールはきちんと調教されていて……その、"やっちまう"こともあるらしいんだ」
 若者はうっとりとして、闘技場に目を移す。
「それを今日やるらしいと聞いてね。故郷から、一晩で飛んできたのさ」
「…………」
 男は、フードごしに、若者の横顔をじっと見据えていた。何を考えているのか、どことなく、憐れみのようなものを含んだ視線ではあった。
「どうだい? あんたも見てみたいだろう?」
「どうかな」
「何だよ、こんな所にまで来ておいて、堅気ぶるつもりかい? ムアンダは、本当に最高の男さ」
「ムアンダを知っているのか?」
「え? そりゃあここらじゃ知らない者はいないだろう。こんな素晴らしいショーを拝めるのも、彼のおかげなんだし」
「今日は、ここへ来ているのか?」
「ああ、いつもいるよ、あそこに」
 若者は向かいの観客席の、さらに上の方を指さす。そちらへ目を向ければ、四階分くらいの建物の一番上の階にバルコニー席が設けられており、確かに、遠目からも数人の人物がそこに置かれた席に座っていることが分かる。
 その中でも、際立って図体の大きい、肌の黒い南方人の姿がある。この人物こそが、"必中"の名を巷に轟かせているムアンダその人であろうことは疑いようもない。彼の名と共に名高いクロスリカーブの所在までは、この距離からしかと認めることはできないが、おそらくは、彼のすぐ手元に置かれているとみて間違いなかった。その気になれば、彼の大弩は、あの高みからこの闘技場のどこへでも狙いを定めることができそうなものである。
「なるほどな……」
 男はそう呟いて、しばしムアンダのいます高御座(たかみくら)を見つめていた。若者はそんな男の様子を不思議そうに見ながら、
「あんた、彼とは知り合いなの?」
 と、訊ねた。
「古い仲間だ」
「へえ、やっぱりあんた、堅気じゃないね」
 若者は、男がなんとなくただならぬ雰囲気を漂わせていることに今さら気付いたとみえ、
「じゃあ僕はこれで。もっと近い席に友人がいるのが見えたから、そっちへ行くことにするよ」
 慌ただしく、観客席の前の方へ去って行った。
 ちょうどその時、何やら観客がぞよめきだし、全員の視線が、金網の中へ注がれた。
 見れば、砂の敷かれた仕合場の真ん中に、小さい人影が、よろよろと進み出たところであった。
 粗末な麻布服に包まれた身体は先ほどの闘士などとは比較にならないほど小さく、か細いものであった。長い栗毛はぼさぼさにかき乱れ、白い肌に汚れが目立つ。
 誰の目にも、その人物は、まだ子どもといっていい年齢の少女にしか見えなかった。
「"餌場"だ……」
「"餌場"が始まるぞ……」
 周囲の観客は歓声をあげることもせず、これから繰り広げられる狂宴の卓上を固唾をのんで見守っている。
(あの娘は……!)
 先ほどまでとはうって変って静まりかえった客席に在り、文字通り"餌"として送り出された少女の姿を見る男の目は険しかった。
 ムアンダの特別席から、騒々しく鐘の打ち鳴らされる音が聞こえ、その調子に合わせるように、徐々に観客は熱気を取り戻していった。やがて、それは大きな歓声となって会場全体を包み込んだ。
 間もなく、二つある仕合場の門のうち、少女が出てきた門とは反対側の門から、彼女の"相手"となるグールが、その姿を現した。
 グールは、前の牛鬼よりずっと身体が小さいものの、容貌はより人間に近く、潰れた鼻に尖った耳、額にはこぶのような一角、太くて長い腕には、樫の棍棒を持っていた。
 醜悪な面相に並ぶ黄色い二対の目が獲物を捕え、だらしなく開かれた口から、点々と唾液を滴らせている。
 一方の少女は、恐怖に顔をひきつらせ、じりじりと後ずさっていく。その様子を見て、狂騒はいよいよ高まる。
 ──いつの間にか、男の姿は観客席から消えていた。仕合場では、すでにグールが少女を金網まで追いつめていた。
「犯れ!」
「喰う前に犯っちまえ!」
 恐ろしい野次が飛び交う。グールは彼らの言葉を理解しているのか、いきなり食らいつくようなことはせず、少女の細腕をひっ掴むと、容赦なくその場に引き倒した。
 同時に、悲鳴とも喜声ともつかぬ声があちこちからあがり、場の興奮はいよいよ最高潮に達しようとしていた。金網にへばり付くようにして観戦する客の姿もあって、その中には先ほどの若者の姿もあった。彼の表情もまた、狂喜に歪んでいた。
 少女は、このまま好きにされては堪らないと、必死にグールの手から逃れ出ようとする。グールの面にも、明らかに笑みと分かる表情が形作られていた。逃げようとする少女の足を掴んで力任せに引き寄せると、麻布服が足元からめくりあがり、白い両脚が露わになった。その上に、グールの唾液がぼたぼたと落ちる。
 グールは、ついに少女の上に覆い被さった。少女は観念したものか、きつく両の脚を閉じて、目を瞑っていた。
 ──と、にわかに、仕合場で行われている狂事に対するものとは、全く別な声が上がりだした。観客の内の幾人かは立ち上がって、グールと少女のいる方とは全く違う方向を指さしている。
 次の瞬間、"餌場"に夢中になるあまり、会場の、そうした一部の変化に気付かなかった者たちも、状況を理解することとなった。
 何かと思えば、グールは恐ろしい悲鳴をあげており、圧迫から解放されたと分かった少女は、すぐさまその身体をグールの陰から逃がしていた。
 見れば、棍棒を持っていたグールの腕は肩口から切り落とされ、真新しい切り口から赤黒い血が噴き出している。すかさず振り返ったグールの眼は、何かが素早く動いたのと、きらりと光が一閃したのを捉えたが、その刹那、彼の視界は宙に舞っていた。
 仕合場の真ん中に、ぼとり、とグールの首が落ちると、離れ離れとなった胴体は、地面に引きつけられるようにして、その場に倒れた。
「エアリス! 逃げろっ!」
 一部始終を見ていた少女は、突如乱入してきた剣士に自分の名を呼ばれ、また、フードを脱いだその顔が見知った男のものであることを確認すると、大きく頷いてから仕合場の門へ走った。
 闘技場内では、罵声の嵐が吹き荒れていた。宴を台無しにされた腹いせに、酒瓶やらマグやら石ころやら、金網の内へ次々と物が投げ込まれていく。
 そんな中、男はというと、観客の発する怒気とは全く別の、あからさまな殺気を周囲から感じ取っていた。
 そしてその殺気が、自分に向けられたものだけでないことを、すぐに悟った。
「伏せろっ!」
 門に辿り着き、ちらとこちらへ振り返ったエアリスに向かって、男は叫んでいた。
 間一髪、頭を下げたエアリスの頭上を、太いボルトが、ひょうと掠めていった。外れたボルトは仕合場の地面に突き刺さり、矢羽を震わせている。
 確認するまでもなく、それはムアンダの特別席から放たれたものであった。ムアンダは特別席のバルコニーから身を乗り出し、逃げ出したエアリスめがけてクロスリカーブより一矢を放っていたのである。
 ムアンダは指を鳴らし、悔しがるような素振りをみせた。エアリスは自分が狙われたことも分からず、その場に頭を抱えて縮こまっている。
 弩はその構造上、次の一矢をつがえるまでに時間がかかる。それとて、弩の達人であるムアンダの手にかかれば、僅かな間でしかない。
 男はこの隙にエアリスの方へ走り寄り、彼女の頭を胸に抱き寄せると、その身を庇うようにして門を潜った。
 ──が、二人の向かわんとする先には、すでに立ち塞がるものがあった。
 "餌場"の前の異種戦において、人間の闘士を一方的に虐殺した、かの牛鬼であった。鉞を構え、鼻息荒く二人の方へにじり寄ってくる。
「くそっ……」
 彼一人ならまだしも、今はエアリスを庇った状態であり、仕合場に引き返せば、今度はクロスリカーブの的にされてしまう。
 しかしその最悪な状況も、闘技場に現れた新たな闖入者のおかげで、すでに一変していた。
 男が異変に気付き仕合場の方を見ると、数人の弓使いが、バルコニーのムアンダに向かって矢を浴びせかけていた。さすがのムアンダも、弓の数と速射性を相手どっては、一人では抗しきれず、周囲にいた子分どもと共に建物内へ身を隠してしまった。
 にわかに始まった場外戦を前にして、観客たちは大混乱に陥り、我先に闘技場外へ避難し始めていた。男はクロスリカーブの脅威の無くなった仕合場へ引き返すと、エアリスを引き連れ、今度は反対側の門へと向かった。
 そちらからは、さらに数人の剣士たちが駆け込んできていた。どれも男には見覚えのある顔だった。彼らは先日、エアリスの礼拝堂に突然現れた北天騎士団の若者たちに違いなかった。さらにもう一人、エアリスを窮地から救ったがためにムアンダ一味から恨みを買い、私刑を受けたウルフとかいう名の放浪の騎士の姿もあった。
 彼は男の腕に庇われたエアリスの姿を認めると、
「エアリス!」
 と叫び、まっさきに駆け寄ってきた。
「怪我はないか?」
 ウルフの問いに、エアリスは頷いて、
「ええ、おじさんのおかげで」
「そうか、よかった」
「おじさん、助けてくれてありがとう!」
 男はエアリスからの感謝にも眉一つ動かさず、
「あとは頼んだ」
 とだけ言って、ウルフの手にエアリスの身を預けた。
「お前……」
 ウルフは一瞬戸惑いの色をみせたが、すぐに頷くと、
「今度こそ、任せておけ」
 エアリスの肩をしっかりと持ち、大きく頷いて見せた。男は無言でそれに応え、今度はラムザの方を向いて、
「あの魔物を頼む。私はムアンダに用がある」
 と、親指を後ろへ向けた。反対の門から出てきた牛鬼は、角を振り上げて雄たけびをあげている。さらに牛鬼の背後から、ムアンダの子分たちと思しき戦士たちが、仕合場に続々と繰り出してきている。
 ラムザはひとつ頷き、
「協力感謝します。どうやら先にアジトへ踏み込んだ我々の見込み違いだったようですね。ことが済んだら、また後ほど」
「ああ」
 男は曖昧に答え、ちょうど、仕合場に駆け込んできたディリータと眼を合わせた。
「…………」
「…………」
 先日、礼拝堂で二人が対面した時の感覚が、そのまま再現される形となった。目を見合わせたのもつかの間、互いに黙ってすれ違おうとしたところで、
「あなたは──」
 と、ディリータが何か言いかけたのを無視して、男は足早に仕合場の門へ歩き去って行った。



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