The Zodiac Brave Story
第一章 持たざる者

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19.花売り


 季節は、まだ夏であった。暦は変わり、処女月(ヴァルゴ)に入っていた。収穫の月である天秤月(リーブラ)にもなれば、ようやく冬の入口が見えてくる。
 イヴァリースは、わりあい季節のはっきりした風土である。広い世界には、夏ばかりの国だとか、年中地面の凍っている国などがあるらしいが、そういった土地に比べれば、三方を海に囲われ、暖かく湿った海洋性の風が吹き渡るおかげで、極端に寒くも暑くもならないのがイヴァリース半島の気候であった。
 自然、人の住みやすい処へは、さまざまな人種が集まり、文明が起こり、国が生まれる。
 畏国もそうだ。まだ十数もの王が並び立ち、互いに覇を競っていた遥かな時代より、言葉も宗教も違う人々が、大陸から海から、こぞってこの土地を目指した。その結果、幾たびも衝突し、血で血を洗う戦争の歴史を繰り返してきた土地でもある。
 そして今日も、たくさんの人間が、海を渡ってやってくる。
 商人、雇われ戦士、異教の宣教師──
 皆それぞれの目的を持って、この土地にやってくる。ことに近年では、戦の臭いを嗅ぎつけて、異国の言葉を操る怪しげな風体の武器商人やら、赤銅色の鎧のような肉体をテカらした南方出身の闘士やらの姿が、ここドーターの港にも目立つようになってきた。また、民の不安に付け込んで、いかがわしい辻説法を開く旅の坊主みたいなのもあった。
「世はまさに、無窮の闇に覆われんとしております!」
 何某の預言者だという、汚らしい法衣を纏った坊主の周りには、ちょっとした人だかりができていた。人々は息を詰めて、その説法に聞き入っている。
「天魔は人心の暗がりに付け込み、疑心を植え付け、やがて果てなき争いを引き起こすでしょう。天魔に心を許してはなりません! 甘い吐息のような囁声が聴こえたら、念じるのです! そして唱えなさい! メイ・ファーと!」
 こう高らかに言い終ると、袈裟に提げた布袋の中に、布施が投げ込まれる。坊主は当然の報いのようにそれを受けながら、今度は一人一人の言葉に耳を傾けはじめる。
「……ばかばかしい」
 そんな光景を遠目に見ながら、板張りの屋根の上に脚を投げだしている一人の騎士の姿があった。
 放浪の騎士ウルフ──もとい、ベイオウーフ・カドモスは、梨の実にかぶりつきながら、巨大な幌を張った貿易船の往来に目を移す。荷や人を満載した船は、澄み切った青空のもと、ドーターの鉤状の湾を悠々と滑っている。桟橋は人でごった返し、人混みはベイオウーフのいる港町の入口付近まで続いている。
「さて、ついに海に出ちまったが、これからどうしたものか」
 ベイオウーフがドーターに着いたのは、つい先日のことであった。
 レウスの山でミルウーダという骸旅団の女騎士に再会し、名残惜しい別れをしてから、彼は聖竜(ホーリー・ドラゴン)に所縁ありと伝わる古代の遺跡を探して、レウスと、それに連なる山々を七日あまり彷徨ったのである。
 ようやく、それらしいものを見出すも、さしたる収穫は得られず、落胆していたところへ、ミルウーダと、その連れの少女を襲った、あの山賊の一味に再び出食わし、その猛烈な復讐をかわして、命からがら山を下りてきたのであった。
 そんなわけで、ドーターにこれといった宛てがあるわけでもなく、ここにこうして、無為に時間を費やしていたものである。
 当面の目的を失ったベイオウーフの眼は、一段高い場所から。
 海を見、空を見、人を見、船を見──
 変化に事欠かない国の玄関口であるが、さすがに半日も見ていると飽きがくる。その目はいつの間にやら、人混みに紛れた花々を物色していた。
「おっ、」
 一輪の花に目を留め、思わず彼は半身を前に乗り出していた。
 小さな花束をいっぱいに詰めたバスケットを腕に提げ、地味な色合いの上下に、薄汚れた白い前掛けといった姿。しかしその容貌は、明らかにその辺の野暮ったいのとは違っていた。
 品性といおうか、それも宮殿の庭先にあるようなものではなく、路傍にひっそりと咲くような、そういった類のものである。
 まだ十五、六といったところであろう。長い栗毛を結い、雪のように白い肌は、およそ町娘とも思えぬ無垢な美しさをみせていた。その姿は行き交う人々の間を縫い、港町の方へ抜けていく。
 よっぽど声をかけようかとも思ったが、変に人目を引くのも憚られ、ベイオウーフは屋根の上から跳び降りると、見失わぬよう、ほどほどに距離を置きながら、花売りの少女の背を追った。
 ドーターに花売りは多い。それも、うら若い乙女ばかりである。
 まさか、花を売るだけで得られる利益などは、たかが知れている。つまるところ、彼女たちは花売りという身を借りて、己が春を鬻いでいるのである。
 夕暮れ近くになると、花籠をぶら下げた少女が宿場街に繰り出し、道行く男たちの袖を引いて、「花はいかが?」という。心得ある男は、言い値の額を支払い、その花を買う。もちろんそれは、花一束どころの額ではない。男のほうはそれも了承済みで、この上辺の手続きのあと、連れたって、そこらの安宿や、人目のつかぬ路地裏の暗がりに入ってゆく。
 こうしたやりとりが、ドーターだけでなく、主要な都市部の下町などでは、よく見られた。花売りの少女は、おおよそは戦災孤児か、貧しい農村から出稼ぎに来たような娘たちであった。戦争のあと、その数は増える一方で、行政の手にも負えない状況であった。
 むろんベイオウーフも、花売りの実情はよく心得ていた。
 しかし彼にも、一騎士としての矜持がある。
 年端もゆかぬ乙女の純潔を金で買うような男も、また、そういう商いそのものの存在も、良しとはしていなかった。
 彼は無類の好色ではあるが、女を金で買った例はない。これと見定めた女には、敬意をもって、自らの言葉を捧げる。女の方から要求されても、けっして金は支払わない。言葉と言葉のやり取りのみで、あとは惚れさせるにしても、体よくあしらわれるにしても、彼は自分なりのやり方を曲げたことはない。
「待たれよ、そこをゆくお嬢さん」
 混雑の途切れたあたりで、ベイオウーフは少女を呼びとめた。少女は、ちらと後ろを振り返ったが、自分が呼ばれたとは思わなかったのか、足を止めようとはしない。
「そこの、花籠を持った、君だよ!」
 もう一声呼び掛けると、少女はようやく歩みを止めた。振り返ってベイオウーフの姿を見とめると、彼女は、
「何か?」
 と、短く応えた。
 その瞳に射とめられて。ベイオウーフの心臓は、ひとつ、大きく跳ね上がった。そして、
「なんと美しい……」
 無意識に、こう言っていた。
「は?」
「いや、その、美しい花だね」
 少女が警戒するように眉をひそめるので、ベイオウーフは、あわてて訂正した。
「買ってくれるの?」
「いやっ、断じて、そんなつもりはない!」
 当然、それを花売りの通例に則る口上として受け取った彼は、強く否定した。けっして、汚らしい野心があって、声掛けした彼ではない。
「たった一ギルよ」
「な、なにっ!?」
 が、こう返されると、彼は己の耳を疑った。この道の習いに従えば、それは彼女の春をたった一ギルで買うということになる。どんな事情があるにせよ、そんな理不尽な商売が成り立ってよいはずがない。
「君は、普段からそんな額で売っているのか?」
「そうだけど」
「しかし、いくらなんでもそれじゃ……」
「だって、花束ひとつじゃない。こんなものでしょう?」
「え?」
 その言葉を聞いて、ベイオウーフは思い直した。少女の言葉を聞く限り、どうやら、彼女は本来の意味で"花売り"をしているものらしい。
「じゃあ、君は、つまり、その……」
「あなたが何を欲しがっているのかは知らないけど、花を買ってくれないのなら、もう行ってくださる?」
 少女は男の下心を見透かしたように、冷たい目をベイオウーフに投げかけると、さっさと行ってしまおうとする。
「待ちたまえ!」
 ベイオウーフが、少女を引き留めようとして、急に腕を取ったので、「キャッ」と、彼女は小さく声をあげて、ベイオウーフの手を振りほどこうとする。
「あ、すまない」
 あわてて手を離すと、少女は今度こそ警戒心を剥き出しにして、ベイオウーフの顔を睨め据えた。
「人を呼ぶわよ」
「誤解だっ!」
 ベイオウーフは憤慨して、身の潔白を訴える。
「もういちど言うが、断じて、そんなつもりはない!」
 彼は懐から小銭袋を取り出すと、その中から、一ギル硬貨を取り出して、少女に差し出す。
「ほら、これで、一ついただこう」
「…………」
 少女は、なお疑り深く、差し出された硬貨と、ベイオウーフの顔を交互に見やる。
「花束だけよ?」
「むろんだ」
 少女はようやく、ベイオウーフから硬貨を受け取ると、交換に、籠の花束を一つ、彼に手渡した。
「どうもありがとう」
 少女は、機械的に礼を述べる。
「君……」
「まだ、何か?」
 少女から買った花を見つめながら、ベイオウーフは釈然としない表情を浮べている。
「失礼を承知で訊くが……君はどうして、花売りなんかをしているんだ?」
 女性の身には、あまりに不躾な質問であった。が、彼がどうしても分からないのは、巷で"花売り"という名の身売りが平然と行われている事実を知りながら、何故あえて、こんな商いをするのか。その上、これほどの美貌の持ち主なら、そういう商売をしている者と思われても、文句はいえまい。
 野菜売りでも魚売りでも、女の身ひとつでやっていける商売はいくらでもある。生活の必需品でもない花などを売って、それだけで糊口をしのぎ得るとは考えにくい。
「どうしてって……」
 少女は言い淀み、目を伏せる。
「花が、好きだから」
 あまりに単純明快な理由に、ベイオウーフは拍子抜けしたように、目を丸くする。
「花が……好きだから?」
「そう」
「それなら、自分で育てていればいいじゃないか」
「そうなんだけど、でも、この花はね、とっても珍しい花なの。私だけが知ってる、秘密の場所にしか咲かない花なの」
「これが……?」
 ベイオウーフは、手に持った花をもう一度よく見てみた。白く小さな花弁には、まさに少女のような、ひかえめな美しさがある。かといって、草花には詳しくないベイオウーフにも、この花がさほど特別なものには思えなかった。その辺の野山にでも生えていそうな、ありふれたものにしか見えなかった。
「何という花なのだ」
「私は、ルマって呼んでいるわ」
「そんなに珍しい花なのか」
「そうよ。だから、たくさんの人に買ってもらって、世界中にルマの花を咲かせてほしいと思っているの」
 そう言って微笑んだ少女の顔は、純粋に、輝いて見えた。それはたしかに、穢れなき処女(おとめ)の笑顔であった。
「だから、大事にしてね。水をやらなくても、三日はもつわ」
「ああ、……」
「それじゃ」
 去っていく花売りの少女の背を呆けたように見送りながら、ベイオウーフの網膜には、可憐な一輪の花の綻んだ絵が、いつまでも焼き付いて離れなかった。
「しまった、名を訊くのを忘れた」
 しょんぼりと萎れて、ベイオウーフは来た道を戻っていく。少女から買ったルマの花は、彼のベルトに挟まれて、たおやかに揺れていた。


 が、再会の機は、早くもその翌日、彼のもとへ訪れることとなった。
 朝一番、下町の安宿を出たベイオウーフは、ドーターの朝市通りをぶらぶら歩いていた。
 そして、ふと目にした屋台の軒先に、見覚えのある栗毛と、白い頬があった。
「あっ、昨日の!」
 草花には疎いが、ことこういう識別においては、彼の目は冴えている。急いで駆け寄るものの、その姿は、すぐに雑踏の中に紛れてしまった。
「どちらへ……」
 爪先立ちに、彼は人混みの合間を探した。すると、今しがた、脇道に入っていく栗毛頭を目端に捉えた。
「あそこか」
 人波を掻きわけ、彼は脇道の入口を目指す。やっと辿り着くと、彼は迷わず薄暗い路地に踏みこんでいく。
 下町の路地裏は、迷路のように、土地勘のない者を惑わせる。途中、道端にうずくまっている乞食を踏みつけそうになったり、家々の裏庭の塀を乗り越えたりしながらも、彼は少女の残した芳香に導かれるようにして、淀みなく足を運んでゆく。
 会ってどうするつもりもなかったが、この男は昨晩、少女から買った花を自らの体重で押し潰さぬように、枕元に置いて眠ったほどなのである。それだけに、ベイオウーフにとっては、忘れ得ぬ出会いであったに違いない。
「きゃああああ!!!」
 かすかに、悲鳴と分かる声を聴いたのは、もう何度目かわからぬ角を曲がった時であった。
 嫌な予感に胸を突かれ、ベイオウーフは声のした方へひた走っていく。
 少し行ったところで、木造の家屋の間に引っ込むようにして、ひっそりと佇む小さな礼拝堂がある。
「やめてっ! お願いだからっ!」
 先ほどよりも、そうはっきりと聴こえた声は、半ばに開かれた礼拝堂の扉の内から、外に漏れ出ていた。
「おのれっ」
 ベイオウーフは、内部を検めるまでもなく、礼拝堂内に踏み込んだ。
 まず目に入ったのは、緑色の頭巾を被った数名の男たちの姿であった。その足元で、両の手に顔を埋めて、へたり込んでいるは、かの花売りの少女であった。
 状況判断などという辞句は引かれる余地もなく、ベイオウーフには、それが恐しい暴力の図に見えていた。
「貴様らああああ!!!!」
 血に任せて、ベイオウーフは鉄拳を振りかざしていた。「あっ!?」と、手前の男が振り向いたときには、その拳は、男の下あごにめり込んでいた。
「げあっ!!」
 骨の砕ける鈍い音がして、男の体が、ふわりと宙に浮く。
 刹那、時が止まったように、凍りつく面々と、雪のように舞い散る白い花弁。
 そのまま、すさまじい物音をたてて、男の上半身は脆い板張りの壁に突っ込んだ。
「野郎っ!」
 それを合図に、男たちは懐に収めてあった短剣を抜き払う。
「おう、どっからでもかかってこい!」
 ベイオウーフも両手を構える。
「その腰のものは飾りかーっ!」
 一人が、勢いよく突きだした短剣をギリギリでかわしつつ、ベイオウーフは男の腕をひっ掴むと、捻りざまに投げ飛ばした。男は床に落下して、不様に手足を伸ばしたまま気絶してしまった。
「ごろつき相手に、わが秘剣を抜くまでもないわ!」
 ベイオウーフはボキボキと指を鳴らしながら、余裕の笑みを浮かべる。
「こいつ、なめやがって!」
 続いて振り抜かれた白刃を後ろ跳びにやり過ごし、反撃の拳を男の顔面にめり込ませる。
「ぐはっ」
 たまらず、この男も床面を転がる。さらに二人が一度に飛びかかったが、これも唸る鉄拳を前に、あっさりと伸されてしまう。
 あまりに一方的なやられっぷりに、さすがにこの闖入者の実力を思い知ったものか、
「おい、待て」
 リーダーと思しき者が、まだ諦めつかずに噛みつこうとしている他の数人を押しとどめる。そして、ベイオウーフのほうへ向かって黄色い歯を覗かせながら、
「どこのどいつか知らねえが、ムアンダ一味にたてつくたあ、いい度胸をしてやがるじゃねえか」
 言葉だけで凄んでみせても、体の方が追っついていないのは目に見えて明らかである。他の者も退き際を察知したとみえ、そそくさと、ベイオウーフの反撃を喰らって伸びている者たちを介抱しだした。
「ムアンダ?」
 聞き覚えのない名を出されて、呆けたような顔をしているベイオウーフを見て、
「狙った獲物は決して外さねえ"必中"のムアンダの名をご存じねえとな?」
 リーダーらしき男は、こめかみに青筋を立てながらいう。
「知らんなあ。聞いたこともない」
「……まあいい。じきにその名を思い知ることになるだろうさ」
 ペッと床に唾してから、「退くぞ!」と一声、男たちは荒々しい足どりで礼拝堂から出て行った。
「非道い連中だ」
 男たちが去ったあとの床には、白い小さな花弁が散乱していた。花売りの少女は、へたり込んだまま、まだ啜り泣いている。
 よく見ると、少女の膝元には床板が無く、そこだけ円状に地面がむき出しになっている。そして、その地面を埋め尽くしているのは、昨日、ベイオウーフがこの少女から買った、あのルマの花であった。
 建物の中に花畑があるという光景自体驚くべきものだが、さらにこの花畑は、暖かい光の輪に包(くる)まれているのである。不思議に思って目を上げてみれば、礼拝堂の屋根には、ぽっかりと大きな穴が口を開けており、そこから、花々の上に燦々と陽光が降り注いでいるのであった。
「なるほど、君の言っていた"秘密の場所"とは、ここのことだったのだな」
 その言葉を聴いて、少女は両手に埋めていた顔を上げ、ここで初めて、見覚えのある男の容貌を、その視界に収めていた。
「あ、あなたは……」
「先日はどうも。怪我は無いかい?」
 こくりと頷いてから、少女が目をやった先には、無残に踏みにじられた花々があった。ベイオウーフもそれを目にして、痛々しげに眉を寄せた。
「いったいどういう連中なのだ。さっきの奴らは」
「ムアンダという男の一味よ。最近になってドーターの下町を仕切り出した、やくざものなの」
「なぜこんなことを」
「知らないわ。いきなり踏み込んできて、地代を払えって。それで、払えないのなら、その……」
「それ以上は言わなくていい」
「…………」
 ベイオウーフの気遣いを受け入れて、そのまま言葉を呑んだ少女は、白い手の甲で涙を拭った。
「……ありがとう。助けてくれて」
「礼には及ばん。なに、たまたま通りかかったところで、悲鳴を聞いたものでな」
 咳払いをして、実のところ彼がここまで少女の跡をつけてきたことなどは、無かったことのように誤魔化した。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。おれの名はウルフ。さすらいの騎士だ」
「エアリスよ」
「エアリス、か。良い名だ。聞き慣れない名だが、生まれはこの辺りなのか?」
「よく覚えてないの。物心ついたときには、もうこの辺りの孤児仲間と一緒に暮らしていたわ」
「そうか。なんにしても、君の身体が無事でよかった」
「ええ。お花はこんなになっちゃったけど、ルマは強い花だから、きっと元通りになってくれるはずよ」
 ようやく、エアリスと名のった少女の面(おもて)に笑顔が戻った。その可憐さに、ベイオウーフの目はまた、無意識のうちに惹きつけられていた。
 ──ふと、こちらに向けられた視線を感じ、彼は我に返って、緩んでいた頬を引き締めた。
 礼拝堂の入口とは反対側に、もうひとつ、小さな勝手口がある。そこに、いつの間にやら一人の男が佇んでいた。視線は、この男から発せられたものであった。
「あ、おじさん!」
 エアリスがそう言ったのからして、その男とエアリスとは、既知の間柄にあるらしい。しかし、さすらい人の目にも、その男の姿はいかにも胡散臭く見えた。
 歳は、ベイオウーフとさして変わるまい。かなりやつれており、髭なども伸びきっているせいか、実際の年齢よりもかなり老けて見えるのかもしれない。
 眼光ばかりがギラギラとしていて、全身に、ただならぬ雰囲気を纏っている。放浪のうちに多くの人物を見知ってきたベイオウーフにしてみても、
 ──油断ならぬ男
 と、瞬時に思わせるほどの何かが、この長身の男からは感じられた。と同時に、その面影にどこか見覚えのあるような気もしたが、男の発する威圧感によって、この僅かな感覚もすぐに消し飛んでしまった。
「何者だ?」
 男は、探るような視線をベイオウーフに向けたまま、エアリスに訊く。
「さっきムアンダの手下が押しかけてきて、乱暴されそうになったのを、この人に助けてもらったの」
「……騎士か?」
 男が言ったのを、こちらに訊いてきたものと受け取って、
「そうだ」
 と、ベイオウーフは一言で答えた。
「北天騎士団か?」
「ちがう。放浪の騎士だ」
「…………」
 男は、なおも疑り深い視線を向けてくる。そうしてしばらく男の目を見返しているうちに、ベイオウーフは無性に腹がたってきた。
 だいたい、大の男がすぐ近くにありながら、なぜエアリスを助けに出てこなかったのか。あの騒ぎが聴こえなかったわけでもあるまいし──と、きわめて妥当な疑念が浮かんでくる。
 そして、思ったとおりのことを問い正すと、男は目を反らして、
「すまなかった」
 と、小声ながら素直に謝った。
「いいのよ。おじさんは怪我をしているんだし」
 こうエアリスが擁護するのも、かえってベイオウーフの嫉妬心のようなものを呼び覚ましたらしく、
「もし、おれがいなかったら、どうしたんだ」
 などと、感情に任せて、恩着せがましいことを口にしていた。
「エアリスも稚児ではない。こういう場所で生きていくためには、自分で自分の身を守る方法くらい、きちんと心得ていなくてはならん」
 男のほうも、もっともらしい言い分を返す。
「あんなに大勢の男に、少女一人で立ち向かえるとでも思っているのか?」
「貴様は助けてやったつもりだろうが、奴らに因縁をつけられたら、困るのはエアリスのほうだ」
「なに……」
「一時でも手を差し出したからには、自分の行動に最後まで責任を持つのが道理というものだろう」
「…………」
 今になって、のこのこ現れた得体の知れぬ男に諭されるのも癪だが、そう言われてみると、そうとしか思えないベイオウーフであった。
 おそらく奴らは、今度はもっと大勢を引き連れて、ここにやってくるに違いない。現に自分は危害を加えてしまっているわけだし、その分、彼らの復讐も苛烈なものとなるだろう。
 こうなっては、ベイオウーフとて引き下がってはいられなかった。
「いいだろう。この件に関しては、しっかりと、このおれが落とし前をつけてやる。剣に誓って、エアリスはこのおれが護ってみせる」


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