The Zodiac Brave Story
第一章 持たざる者

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2.遺志を継ぐ者



 夕暮れ時に始まった宴は、夜が更てもなお続いた。
 行軍中の軍隊がこんなにも浮れているのは、先日、ザルバッグ将軍指揮のもと、大々的に行われた骸旅団殲滅作戦において、最大の反抗勢力であった旅団長ウィ-グラフ率いる反乱軍を見事、壊滅せしめたためである。
 この作戦の戦果により、ガリオンヌ領を荒らしまわっていた骸旅団の大半は、その中心的勢力を失い、路頭に迷うこととなった。
 マンダリアの砦に立て篭っていたのは、掃討作戦で敗走した骸旅団の残党であり、ザルバッグがいとも簡単に敵の条件を呑んだのは、第一に実の弟の命を救うためであったが、しばらくは大した反抗もできまい、という彼の余裕でもあった。
 兎も角も、先日の大勝利もあって、ラムザが今回、敵の人質に取られた挙句、残党とはいえ、敵をむざむざ逃してしまったという大失態に対する責任は、とりあえず不問となった。
 明くる早朝、ザルバッグ軍は、昨晩の酔いも冷めやらぬままに、イグーロス城への帰還の途についた。
 行軍は滞りなく進み、日が大分高くなったころになって、ザルバッグ率いる北天騎士団は、イグーロス城下に凱旋を果たした。城へ続く道々、英雄ザルバッグの雄姿を一目見ようと、大勢の人々がひしめき合い、各々手を振ったり、喚声をあげたりしていた。自慢の黒羽に跨ったザルバッグ将軍は、誇らしげに胸を張り、その蒼眼は真っ直ぐ前を見据えていた。
 城門に着くと、鼓笛隊が整然と列を成し、華やかな凱旋のファンファーレを奏でた。城からは、ガリオンヌ領主のラーグ公爵が直々に出迎えに現れ、大いにその労をねぎらった。
 ラーグ公爵に戦果を報告したのち、兄弟は父を見舞うため、ベオルブ家の邸へと向かった。
 邸に着くと、侍従の者が出迎えに現れ、バルバネス将軍は寝室にて静養中であると述べ、二人を案内していった。
 寝室の前に来て、従者が兄弟の来訪を告げると、
「入ってきたまえ」と、中から小さく返答があった。二人はちょっと顔を見合わせてから、おもむろに室内に踏み込んだ。
 寝室の窓は開け放たれ、午後の陽光とともに、初夏の涼やかな風が、梢のそよめきを内へ連れ込んでいた。
 父はベッドの上に半身を起こし、静かに書物を捲っていたが、兄弟が部屋に入ってくると、書物に落としていた目を此方に向けて、無言で微笑んだ。
「父上……」
 と、ラムザがいった。我が子を前に敢えて明るく繕ってはいるが、頬は痩け、膚は青白く、その表情に往年の雄姿はほとんど見られなかった。兄弟は、久々に対面した父の変わりように、動揺を隠せずにいた。
「急病と聞いて、ガリランドより飛んで参りました。お健やかなご様子でなによりです」
 ラムザは、努めて健気にいった。
「うむ。無用な心労をかけてしまったな。このとおり、今は床を出ることもかなわん。わしも老いたものよ」
 バルバネスはやや自嘲ぎみにいった。
「気弱なことをおっしゃる。父上には、まだまだ頑張ってもらわなくては」
 ザルバッグが、そんな父の弱気を諫めた。
「いやいや、畏国が大戦の荒廃から立ち直るためにも、今は若い力こそ肝要である。それ故に、わしは北天騎士団の全指揮権をそちに預けたのだからな」
 言い終わると、バルバネスは二、三度咳き込んだ。ラムザはすぐに、ベッドの傍らの水差しを手に取ると、グラスに水を注いで父に渡した。すまぬ、といってバルバネスはグラスの水を一息に飲み干した。
「──ときに、ザルバッグよ。前(さき)の戦の首尾はいかに?」
 身は病床にあっても、天騎士バルバネスが戦場を忘れることはないらしい。バルバネスが先日の戦果を問うと、ザルバッグは胸を張って答えた。
「我らはレアノール野の決戦において、賊将ウィーグラフの反乱軍一万を徹底的に殲滅いたしました。いま一歩のところでウィーグラフの身は捕り逃しましたが……まあ、貴奴らは当分の間、盗賊紛いのことは続けても、大規模な反乱を起こすことはありますまい」
 そこでラムザのほうを横目でちらと見やると、
「その後、我が軍はマンダリアの丘にある砦跡に立て籠った賊の残党を囲みましたが……まあ、敵の数もそう多くはありませんでしたので、小勢相手に時間を費やすのも無駄と思い、包囲を解いて、逃がしてやりました」
 と、多少事実をぼかして言った。
「そうかそうか。逃がしたとな」
 バルバネスは、眼尻にしわを寄せて頷いた。
「骸旅団とて、今でこそ盗賊の輩と目の敵にされてはおるが、前の畏鴎大戦の功績は何も我ら北天騎士団のものばかりではない。そちも、わしも、今こうして生命を保っておるのは、ひとえに、ディリータの父オルネスと、骸騎士団の名もなき兵卒の犠牲の上にあること、ゆめ忘れてはならんぞ」
 どこか、幼子を諭すような口振りである。
「それはよく心得ております。此度は、敵が敗残の少兵であったこともあり、多少の恩をかけてはやりましたが、ウィーグラフはこの混乱期におよんで徒(いたずら)に国土を踏み荒らし、自らを平民の代弁者などと標榜しながら、かえって民草を苦しめております。ガリオンヌの治安を司る北天騎士団を任されたからには、草の根分けても貴奴を探しだし、処刑台にかけてやらねばなりません」
「うむ。そちの言うことはもっともであるが、賊将ウィーグラフとて、身は平民の出でありながら、前の大戦においては、能く兵を用い、その武勇は北天騎士団の名だたる将に勝るとも劣らなかったという。ベオルブの家の子たる者、彼らの言い分を聞いてやるくらいの器量も、持ち合わせておらねばならんぞ」
「は……」
 血気盛んなザルバッグは、やや表情に不服の色を隠せないようであったが、父の身体を気遣って、これ以上は敢えて言わなかった。
 久々にまみえた親子は、それから暫しの間積もる話題を崩しあい、やがてザルバッグは公務があるといって、その場を辞した。
 二人きりとなったラムザとバルバネスは、窓外にまもなく沈もうとする夕陽を黙って見つめていた。
「美しいな」
 バルバネスがしみじみといった。ラムザは微笑みながら、父の横顔を見つめていた。その顔には、かつてない穏やかさがあった。またそこには、何かを悟ったような、あるいは諦めにも似た色が窺える。
「ディリータは元気にやっておるかね」
「ええ、相変わらずですよ。ホランド家の方々も、とても良くしてくださってますし」
「そうか。ディリータとは仲良くな。あの子は将来、きっとお前の良き助けとなってくれる」
「時々、くだらないことでけんかはしますけどね。兄上から父上がご病気との便りを受け取った時だって、僕がなんと言っても、あいつは動こうとしませんでしたし」
「ハハハ。奴らしいの」
 ラムザも、父につられて笑う。
「いやまったく……ホランドに便りをよこしたのは、ダイスダーグの老婆心であったのだが……正直、おまえがイグーロスまで駆けつけてくるとは思わなんだ」
「いや……それは」
「復活祭の休暇までには、まだ間があろうに」
「心配でいてもたってもいられなかったものですから」
「くくく……」
「なにがおかしいんです?」
「いや、なに。やはりおまえはローサに似たのだと思ってな」
「え、母上に?」
 ローサは、バルバネスの後妻、つまりラムザとアルマの母の名である。しかし、父の口からその名が発せられたのを、ラムザは初めて聞いた。
「兄にもいわれました」
「そうか。だが、それでよいのだ。おまえは」
「…………」
「不服か? しかし、わしもこの歳になってあらためて思う。やはり武人は、ときに母のごとく優しき心、慈悲深き心を持ち合わせておらねばならんのだと」
「…………」
「そして、そういった心は、およそ英雄と呼ばれる者に欠けている素質でもある」
「そうでしょうか」
 開け放たれた窓からは、冷え冷えとした夜風が入り込んできている。
 今や落日は西の山々の稜線にその姿を隠し、薄紫の雲間には宵の星々が瞬き始めている。
 ラムザは立ち上がると、両開きの窓をゆっくりと閉めた。
 バルバネスは、息子の背中をを無言で見つめていた。
「ラムザよ」
「はい、父上」
「…………」
 バルバネスはラムザに、椅子に掛けるよう目で促した。ラムザはそれに従って、先ほどまで腰かけていた椅子に座った。と同時に、何かただならぬ雰囲気を感じ取って、ラムザは無意識に身を引き締めた。
「本来ならば、この儀については、然るべき遺言状を以ておまえに伝わるはずであった」
 一息の間をおいてから、バルバネスはおもむろに切り出す。
「しかし今日、図らずもわしはこうして親子水入らずで語り合う機を得た。この際、わずらわしい文書は抜きにして、わし自らの言葉を以て、おまえにこの儀を伝えようと思う」
「……?」
 ラムザは咄嗟に思考を巡らした。遺言状とは? 遺言状で伝えねばならぬほどの儀とは? 父はすでに自らの死期を悟っているというのか?
 唐突な父の言葉を前に、ラムザは戸惑いの色を隠せない。そんな息子の混乱をよそに、バルバネスは淡々と言葉を続ける。
「おまえは末の男子ながら、今やベオルブの名に恥じぬ立派な騎士となった。もはや、わしの跡目を継いだとて、先祖のお怒りはこうむるまい」
 しかし次の瞬間、電撃に打たれたかのごとく、ラムザの思考は停止していた。
「……え?」
 ──跡目を継ぐ?
 父の言を額面通りに受け取るならば、それは有能な兄たちを差し置いて、胎違いの三男坊にすぎぬラムザが畏国の武門の棟梁を引き継ぐということである。
「なにをおっしゃるかと思えば……。お戯れもほどほどになさってください」
「いや、戯れでいっているのではない」
 バルバネスは、ラムザの顔をまっすぐ見据えた。その目に、もはや先ほどまでの穏やかさは見られなかった。物言わでも、父の決心の程が窺えるかのようであった。
「勇者ザハラムより代々ベオルブ家に伝わる宝剣、レオハルトをおまえに託そうと思う」
 暫しの間沈黙が流れた。閉ざされた窓越しに、庭の木々の葉が、気まぐれな風に誘われてざわざわと囁きあった。
「しかし父上、それは……」
「そうだ。レオハルトを継ぐ者、それすなわちベオルブを継ぐ者となる。ラムザよ。おまえは、このわしに代わって、ベオルブ家の当主となるのだ」


 その夜はゆるりと明けた。
 結局、ラムザは一睡の間も得られなかった。朝の小鳥たちの囀りも、今日のラムザには妙に遠く霞んで聞こえた。頭の中も何となくぼうっとしていて、昨日父が言ったことを反芻してみる気さえ起らないのであった。
 彼はそのまま着替えを済ませ、朝食の席に降りて行った。
 食堂に入ると、兄二人はすでにあわただしく食事を始めていた。広間の中央に置かれた長机のいちばん上手の席は空いており、そのすぐ右手の席に坐っている長兄ダイスダーグは、食事の合間に彼の隣りに立っている秘書官にあれこれ政務に関する指示を与えていた。長兄に向き合うように坐っている次兄ザルバッグはというと、そんな兄には眼もくれず、黙黙と食事を続けていたが、ラムザが広間に入ってきたのに気づくと、にこりと笑って、「おはよう」と陽気に挨拶した。ラムザはその声に一瞬ギクリとしたものの、「あ、おはようございます、兄上」と、やや笑顔を取り繕って、そそくさとザルバッグの隣りに収まった。そこでやっと弟の存在に気づいたのか、ダイスダーグも、「お、ラムザか。おはよう」と手短に言ったが、すぐに秘書官とのやり取りに戻ってしまった。
「久々の我が家はどうだね。よく眠れたか?」
 ザルバッグが言った。
「はい、それはもう」
「そうか。私も昨日は久々によく眠った。ここのところ戦続きだったからな。やっぱり我が家はいい」
「…………」
 ともすると途切れがちな会話をなんとか保とうとするばかりに、ラムザの食事は一向にはかどらなかった。彼の頭の中で、思考が昨日の父の言に向かうのを必死に拒んでいるかのようであった。
「今朝はいやにおしゃべりだな、お前は」
 弟がルザリアの踊り子の話題を持ち出したところで、ザルバッグもさすがに不審に思ったらしい。普段はわりと寡黙なほうのラムザではある。久々の家族の団欒とはいえ、何となくぎこちない弟の様子に、彼が違和感を覚えたのも無理はない。ここで秘書官が退出し、ダイスダーグが二人の会話に加わったのがせめてもの救いであった。
「オムドリア王のご容態が、ここのところどうも芳しくないらしい」
 ダイスダーグが深刻な面持ちでいった。
「明日、ラーグ大公がお見舞いに赴かれる。私もお供することになった。ゴルターナ卿はすでにルザリアにあって、陛下に謁見したとも聞くしな」
「ほう、南天公がね……」
 ザルバッグが意味ありげに笑みを浮かべた。
「そいつは穏やかならぬことだな」
「ともかく……支度を急がせねばならん」
 ダイスダーグは席を起ちかけて、そういえば、とラムザのほうを向いていった。
「アルマとティータが父上の見舞いに帰るそうだ。昨日オーボンヌのシモン司教から手紙があってな。来月にはイグーロスに帰るはずだ」
「え、アルマとティータが?」
 ラムザの妹アルマと、彼の親友であるディリータ・ハイラルの妹ティータは、五つの時に王室領ルザリアにあるオーボンヌ修道院に入っており、以来ほとんど時期をそこで過ごしていた。そのオーボンヌ修道院の司教、シモン・アスールは、グレバドス教会から最高司祭の栄誉を授かったほどの人物で(最高司祭とは、布教活動や神学研究などにおいて、著しい成果を残した者に与えられる、グレバドス教皇に次ぐ高位である)、王室との関わりも深く、オリナス王子ご誕生の折、政治的理由により、現国王オムドリア三世の異母妹君で養女でもあらせられるオヴェリア・アトカーシャ王女も、同院に入られたことはよく知られている。
 朝食の後、ラムザはひとりぶらぶらとイグーロスの城下に繰り出した。
 アジョラの復活祭で賑わう大通りからは少し外れて、彼はひときわ薄暗い裏路地に入っていった。妖しげな匂いを漂わせる薬問屋や浮浪者のうごめく酒場などをいくつか過ぎると、急に開けた所にひっそりと佇む修道院がある。
 ややくすんだ石壁に歴史を感じさせる礼拝堂の裏手に回ると、そこにはベオルブ家先祖代々の霊を祭った墓がある。やや奥まった所にある一番大きな墓石の前に跪き、ラムザはしばしの間黙祷を奉げた。
(もはや、わしの跡目を継いだとて、先祖のお怒りはこうむるまい)
 昨日の父の言葉が、ラムザの脳裏によみがえる。
(ラムザよ。おまえは、このわしに代わって、ベオルブ家の当主となるのだ)
 武門の家の継嗣は、およそその家の嫡男をもって行われるというのが世の習いである。ましてベオルブ家の場合、長兄ダイスダーグが、母の血筋、またその素質という面からしても、後継者たるにふさわしいということは、誰の目に見ても明らかである。
 ──無論ラムザも、その道理を父に訴えた。それに対し父は、
「表向きの後継ぎは、おそらくダイスダーグとなるであろう」
 としながらも、
「──但し、真の後継たる証、すなわちレオハルトの剣は、そちに託さねばならん」
 と、あくまで正式な世継をラムザとする自らの意思を明確にした。
 また、レオハルトの剣に関しては、
「邸の宝物庫にあるは贋物で、真の剣はルザリアの刀匠、ルドルフの許にある。然るべき時来たらば、その者を訪ねよ」
 というのである。
 その家の世継たる証として、何かしらの具体物を代々受け継ぐという風習は、武門の家に限らず、いわゆる貴族階級の家のあいだでは、特に珍しいことではなかった。そして、王族はもちろんのこと、ベオルブのような古い家柄になるほど、「後継の証」はかなりの重みをもって扱われる。
(これは、そちにのみ残す遺言。たとえ身内の者であっても、他言は一切無用であるぞ)
 この決断が、父の気まぐれでも、愛する妻の子に対する単なる偏愛によるものでもないことだけは、はっきりしていた。何か測り知れぬ大きな理由あってのことに違いないが、父は「今はまだわからぬでもよい」として、詳らかにはしなかった。
(何故? いったい何のために?)
 答えの無い疑問は、あぶくのように次々と湧き出でては消えていく。彼にはまだ、何の心構えも、準備もなかった。街道をゆく道々、彼をせきたててやまなかったあの不吉な感じは、まさにこのことであったのだろうか?
「そこにいらっしゃるのは、もしや、ラムザ様ではありませんか?」
 不意に聞き覚えのある声がして、ラムザは目を開けてそちらを振り向いた。見ると、質素な麻の修道衣をまとった少女が、そこに立っている。
「あ、やっぱりラムザ様だ」
 何か美しい調べにでも導かれるようにして、少女はラムザのほうにつと歩みをよせる。
「やあ。エリザ、こっちだ」
 ラムザは、空をまさぐっている少女の手を取り、彼の存在を知らしめた。
「ああ、お久しゅうございます」
 エリザは少し小首を傾げるようにして、顔を綻ばせる。たしか幼い頃に患った熱病の所為であったか、その瞳に光はなかった。
「一年ぶりくらいかな」
「そうですね。昨年の復活祭の折にもいらっしゃったのを覚えております」
「ああ。その時はディリータもいたっけか」
「ディリータさまは、今日はいらっしゃらないのですか?」
「うん。あいつは今ガリランドにいるよ」
 二人は傍の石垣に腰をおろした。
 ラムザと幾つも歳の違わないこの修道女は、ここの司教が営む孤児院の出で、ベオルブ家の墓がこの修道院にあることもあって、二人は幼い時分からよく知り合っていた。ディリータとティータの兄妹は、ベオルブの家に入る前、一時的にここの孤児院に預けられており、その頃から、エリザはよき遊び仲間となっていた。士官学校に上がってからは自然と会う機会も減ったが、休暇などの折を見ては、ラムザはちょくちょくここを訪れていた。
「ベオルブ家の方々さまもお変わりなく?」
「いや、それが……」
 ラムザは父の急な病のこと、その知らせを受けて、先日帰郷したばかりだということをエリザに話して聞かせた。
「そうでしたか……父上様がご病気に」
 エリザは少し眉を曇らせて、うつむき加減にいった。
「いや、剛毅な父のことだ。心配はいらないよ」
 そう言いながら、ラムザは一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
 昨日久々にまみえた、あの父らしからぬ蒼白な顔。ただの病でないことは、素人目にもわかった。
 ──そして、あの遺言。
 父は、自らの余命幾許もないことをすでに悟っているようでもあった。武人として、病床に命尽きることがいか程に口惜しいことか。それを思うだけで、若いラムザの心は疼いた。そして、今は更なる重みが、彼の両肩にのしかかっていた。
「……ラムザさま?」
 自然とこぼれ出てくるものを、ラムザはそっと拭った。折々に見せる彼のこんな姿を、兄たちは「女々しい」というのかもしれない。
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
 ラムザは健気にもそう言って、笑ってみせた。エリザはその顔に微笑を絶やさず、ラムザの顔を見つめていた。彼女の盲(めしい)た瞳が、ラムザの面(おもて)を正確に捉えることはなかった。しかしその瞳には、表情のさらに向こう側を見透かすような、不思議な深みがあった。
「礼拝堂に参りませんか? 父上様のご快癒を共にお祈りいたしましょう」
「ああ、そうだね。そうしよう」
 二人は連れ立って、礼拝堂に向かった。
 建物の外見の割に広い印象を受ける礼拝堂の内には、午後の参拝客の姿がまばらにあった。復活祭の月ということもあり、いつもは人っ子一人いないというのが当たり前な礼拝堂にも、わずかながらの活気があった。
 ラムザとエリザは、正面に据えられた祭壇の前に跪き、グレバドス聖教の作法に則った拝礼を施した。そのまま黙祷に入り、無言の祈りは始まる。
 ──すべてを「無」に帰して、ありのままの自分に対面すべし。
 これが、聖アジョラの導きの詞である。「神は己が心内にあり」というのがグレバドス聖教の一般教義であり、雑念煩悩の一切を払い、無垢なる自己に対面することで初めて神への祈りは通ずると、そう信じられている。細かい規律を定めた教典などもなくはないが、多くの民草に受け入れられているのは、
「神は己が心内にあり」
 という、この一念だけであった。
(余計なことは考えるな。頭の中を真っ白にして、自分自身に向き合うのだ)
 ラムザが初めて剣を取った日、父はまず最初にそういった。
「わからないよ」
 幼いラムザが言うと、
「理解できるものではない」
 と、父は答えた。
「実際、わしにもよくわからん。理屈で説明するのは難しい。あえて言うならば……」
(己を見失わぬこと)
 ラムザは心の中で復唱した。己を見失わぬこと。己を見失ったとき、その剣は狂気にとらわれ、無用な殺戮を生み、果ては己が命を奪い去る。
 祈りを終えると、ラムザは静かに立ち上がった。エリザはまだ祈りを続けている。祈りに決まった長さはないが、今のラムザにとって、心を白にするという業は容易ではなかった。しかし無言の祈りは、彼の気持ちを新たにするに十分な時間を与えてくれた。
「ありがとう。貴重なひと時だった」
 去り際に、ラムザはエリザの手を取っていった。
「私はいつもここにおります。またいつでもいらしてください」
 エリザはそう言ってほほ笑んだ。その無垢な笑顔を前に、ラムザは少しだけ痛みを分かち合えたような心地に浸っていた。
「ああ、きっと。父上の病が治るまで毎日祈りに来よう」
 ラムザも笑顔で答えた。


 それから二週間あまりが過ぎ去った。季節の色も、心なしか青青と、夏の気配を帯びてきている。
 ラムザは日々、武芸に励むかたわら、夕暮れ時には城下に出て、例の修道院で祈るといった一日を繰り返していた。あの日以来、父は主治医を除いては、一家のうちの誰とも面会しようとしなかった。
 ラムザは気持ちを整理しながらも、心のどこかで覚悟を決めようとしていた。その一方で、現実を受け入れようとしない自分がいるのも、彼はよく承知していた。
 別れの時は無情にも刻一刻と迫ってくる。
 ラムザがイグーロスに戻ってから一月あまりが経った巨蟹月三日、バルバネスは終に危篤状態に陥った。
「父上は、もう長くないそうだ」
 ラムザは、この日イグーロスに帰ってきたばかりのアルマとティータに、そのことを冷静に伝えながらも、内心では堪えきれないものを人知れず、そっと流した。若い彼にとって、その別れはあまりに早すぎたし、その背に負うた宿業はあまりに重すぎた。
「兄さん、ここにいたのね」
 庭の一角であった。高台に位置するベオルブの邸からは、イグーロスの城下を一望することができる。ラムザは背の低い石塀に腰をおろし、そこで独り、遠い目をしていた。
「アルマか」
「さっきから姿が見えないものだから……」
 アルマは、砂利を手で払ってから、兄の隣に座った。
「こんなときに……お兄様たちはどこにいるのかしら」
「ダイスダーグ兄さんは、ラーグ公のお供でルザリアに行ってる。ザルバッグ兄さんは、北部で起こった反乱の鎮圧に向かうといっていた」
「そう……」
「父上の様子は?」
「まだ意識が戻らないの。でも、声をかけると、何かおっしゃろうとするの。ずっとお側にいたかったけれど、お医者様が治療なさるというので……」
「そうか」
 この季節特有の、湿っぽい空気が顔をなでる。イグーロスの上空に広がる青天は、遠くマンダリアの草原地帯に差し掛かったところで、切り取られたように黒々とした雷雲に変わっている。時折稲光を見たかと思うと、少し遅れて、ドロドロと戦鼓を轟かすような雷鳴が、地面を伝わってくる。
 傍らでアルマのすすり泣く声が聴こえたが、ラムザはそんな妹を慰めてやることもできずに、ただ俯いていた。
 ラムザより三つ年下の妹は、今年で十三になる。ひと周りもふた周りも歳の離れた兄たちに比べ、同じ胎の産まれである妹のアルマは、彼にとってずっと親しみやすい存在であった。そして妹も彼と等しく、いや、もしくはそれ以上に父親の愛情を一身に受けて育ってきた。
 その愛すべき父との別れが目前に迫っているのである。まだ幼いとはいえ、もう十三になる娘には、その現実を現実として受け止めるだけの、十分成熟した分別がすでに備わっていた。
「女学院にはもう慣れたかい?」
 久々にまみえる兄妹の会話である。ラムザは、努めてありふれた話題に持ち込もうとした。
「……ええ」
 アルマも袖で涙を拭って、それに応える。
「友達もたくさんできたわ。でも……」
「でも?」
 アルマは妙に言葉を濁して俯いてしまった。気になってラムザが問いただすと、「ディリータには言わないで……」と、少しためらいがちに話し始めた。
「ティータのことなんだけれど……」
 ラムザが先ほど言った「女学院」というのは、ルザリア王立貴族女学院のことであり、畏国じゅうの名門といわれる貴族の息女で、この「女学院」の門を出ないものはなし、というくらいの名門校である。
 アルマとティータも昨年そこに入学したばかりなのだが、アルマによれば、そこの同窓たちから、ティータが陰湿ないじめを受けているのだという。
「そうか……ティータが」
 おおよそ想像できないことでもなかった。ガリオンヌ領における武門の棟梁、名門ベオルブ家の養女とはいえ、ティータが平民階級の出であることは、自然、「女学院」の学生たちのあいだにも知れ渡っていたにちがいない。殊に、そこは畏国じゅうの名門という名門の女子たちの集う学び舎である。彼女たちの過剰なまでの自意識が、その場においては例外中の例外ともいえるティータの身を遠ざけたのも、別段不思議なことではない。
「私がそばにいるときは、誰もそんなそぶりはみせないの」
 アルマは、あたかもそれが自己の責任であるかのようにいった。
「でもね、ある子がわたしにいったの。『どうしてベオルブ家のあなたが、あんな汚らしい子と一緒にいるの?』って……。わたし、そのとき初めて知ったの。ティータが、わたしの見ていないところで辛い目に遭ってるって」
 アルマは両膝に顔を埋めて、肩を震わせた。兄たるラムザは、そんな妹の肩に手を置いて、表情に困惑の色を浮かべていた。
「自分を責めることはないさ。誰に何といわれようが君たちは親友、そうだろう?」
「…………」
 アルマがしゃくりあげながらも、大きく頷くのがわかった。
 誰の責任でもない。寛大なる父は、ダイスダーグやザルバッグの反対に遭いながらも、ハイラル兄妹を実の子らと分け隔てなく、同じ学校に通わせようとした。結果として、社会の風潮がバルバネスの理想を受け入れなかったまでのことである。
 ラムザの通う王立士官学校でも、平民の出である親友のディリータは、何かにつけて僻みや嫉みの対象となっていたが、ディリータには、そんな陰口などものともしない強さが元々あったし、だいいち学内では、彼はどんな名門貴族の御曹司にも引けを取らない優秀な士官候補生であった。
 優秀という面では、妹のティータも幼い時分から学問を好み、「女学院」での成績は、アルマよりもむしろ良いくらいなのである。
 しかし、多感な時期の少女の心は、硝子細工のごとく傷つきやすく、繊細で、脆いものである。
 いつしかティータは、アルマの前でもあまり笑顔を見せなくなったという。
「わたし……ティータが……かわいそうで……辛くて……でも……何もいえなくて……」
「…………」
 今のラムザには、そんな妹の悲しみを無言で抱き止めることしかできなかった。否、むしろいかなる慰めの言葉も、この際何の役にも立たないように思えた。
「もう、家に戻ろう。嵐が来そうだ」
 二人の頭上には、いつの間にか分厚い灰色の雨雲が、低く垂れこめていた。一陣の生ぬるい風が通り過ぎたかと思うと、ぽつりぽつりと、滴が落ちてきたのを肌で感じた。
「……さあ」
 ラムザは、涙に暮れる妹の肩を抱きかかえるようにして立ち上がると、屋敷のほうにむかって歩き始めた。


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